2012年10月17日
今は懐かしい思い出!
私が生まれたのは、和歌山県和歌山市朝日。
大変古い話になりますが、和歌山市になる前の旧住所は、和歌山県安原村朝日
だったと思う。
父方の私の祖母が、私が5歳の頃に亡くなった。
村の山にある墓地に、土葬されたことを今でも鮮明に覚えている。
当時、これが村では最後の土葬になった。
いつの頃からここが土葬の場所だったのかは定かではないが、古い村の歴史から
すれば、室町末期からと思われる。
この墓地のことを和歌山の方言では、『さんまえ』と呼んでいた。
鬱蒼と茂った竹藪の中にあり、この中を歩くと所々が凹んでいて、子供の足など
はすっぽりと入ってしまいそうだった。
1950年(昭和25年)生まれであるから、この時期に5歳ということは昭和
30年のことになる。太平洋戦争が終わって、僅か10年しか経過していない頃
である。
風が吹けば竹薮の竹がザワザワと揺れ、子供心にも何とも気味の悪い怖い場所だ
った。 怖いもの見たさの気持ちも働いて、この墓地周辺が当時の子供たちの遊
び場所だった。
さらに、鮮明に憶えているのは、竹薮の中には、古くなって掘り出された人骨が
ごろごろと転がっていたことである。
幼心にも、人が死んだらこのようになるんだと漠然と理解したのを憶えている。
後年になり、この『さんまえ』という言葉を調べてみると、『読書三昧』などという『
三昧』が訛ったものであると知った。
これらの原体験が、今日のこのライフワークである海洋自然葬(散骨)やご遺骨
でお作りをするエバーメモリアルなどに繋がっていると自覚している。
詳しくは、後日・・・。
限りあるときを輝いて!
オリジン研究所
大変古い話になりますが、和歌山市になる前の旧住所は、和歌山県安原村朝日
だったと思う。
父方の私の祖母が、私が5歳の頃に亡くなった。
村の山にある墓地に、土葬されたことを今でも鮮明に覚えている。
当時、これが村では最後の土葬になった。
いつの頃からここが土葬の場所だったのかは定かではないが、古い村の歴史から
すれば、室町末期からと思われる。
この墓地のことを和歌山の方言では、『さんまえ』と呼んでいた。
鬱蒼と茂った竹藪の中にあり、この中を歩くと所々が凹んでいて、子供の足など
はすっぽりと入ってしまいそうだった。
1950年(昭和25年)生まれであるから、この時期に5歳ということは昭和
30年のことになる。太平洋戦争が終わって、僅か10年しか経過していない頃
である。
風が吹けば竹薮の竹がザワザワと揺れ、子供心にも何とも気味の悪い怖い場所だ
った。 怖いもの見たさの気持ちも働いて、この墓地周辺が当時の子供たちの遊
び場所だった。
さらに、鮮明に憶えているのは、竹薮の中には、古くなって掘り出された人骨が
ごろごろと転がっていたことである。
幼心にも、人が死んだらこのようになるんだと漠然と理解したのを憶えている。
後年になり、この『さんまえ』という言葉を調べてみると、『読書三昧』などという『
三昧』が訛ったものであると知った。
これらの原体験が、今日のこのライフワークである海洋自然葬(散骨)やご遺骨
でお作りをするエバーメモリアルなどに繋がっていると自覚している。
詳しくは、後日・・・。
限りあるときを輝いて!
オリジン研究所
Posted by オリジン研究所 at 18:54│Comments(0)
│暮らしと葬儀のあり方